竜雲救出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 14:30 UTC 版)
1927年(民国16年)2月、唐継尭が竜雲・胡若愚ら4鎮守使の兵変で失脚した。胡瑛は雲南省務委員会候補委員に任命される。同年6月、胡若愚が竜を奇襲、捕縛する事件が発生し、再び雲南省内は混乱に陥る。竜配下の盧漢らの要請を受けた胡瑛は、国民革命軍第38軍軍長として擁立されることに同意した。胡瑛は昆明に迫って胡若愚に竜を解放させ、これを復権させている。さらに後には、竜のために胡若愚らの軍を追撃、駆逐し、その雲南支配の確立に貢献した。 竜雲による雲南平定後は、胡瑛は前線指揮官の地位から退く。以後、20年以上にわたり、雲南省政府委員を務めた。その一方で国民政府参軍処参軍、雲南金融整理委員会委員長、制憲国民大会代表、行憲国民大会代表などを歴任している。日中戦争後の1945年(民国34年)10月に、竜が中央軍に昆明で包囲され、雲南省政府主席から罷免されそうになると、蔣介石の依頼で胡瑛がその投降を説得する役となった。 1949年(民国38年)1月、胡瑛は完全に引退し、昆明郊外の温泉郷に隠居した。国民政府からの台湾行の誘いも断り、中華人民共和国成立後もそのまま同地に留まっている。 1961年4月3日、隠居先で胡瑛は病没した。享年73(満71歳)。
※この「竜雲救出」の解説は、「胡瑛 (雲南)」の解説の一部です。
「竜雲救出」を含む「胡瑛 (雲南)」の記事については、「胡瑛 (雲南)」の概要を参照ください。
- 竜雲救出のページへのリンク