立場川甲信国境説とは? わかりやすく解説

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立場川甲信国境説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 23:30 UTC 版)

立場川」の記事における「立場川甲信国境説」の解説

立場川まつわる話の一つに、かつてこの川が甲斐国山梨県)と信濃国長野県)の国境だったという説がある。現在の長野県山梨県県境釜無川および甲六川になっている。しかし釜無川立場川合流してから甲六川合流するまで、県境不自然に削られたような屈曲見られる考古学的に末木健が富士見町域から甲斐型土器出土例があることから古代甲信国境立場川としている。伝承では、天文9年1540年)に武田信玄の妹である禰々御料人諏訪頼重嫁ぐ際に、化粧料として18持参し、それによって甲信国境甲六川変更されたといわれている。史料では戦国時代甲信国境は「堺川」と呼ばれるであった推定されるが、堺川呼ばれる河川現存していない。堺川現在の何川であるのかということについて、今までいくつかの説が提示されている。 立場川であるとする説 富士見町御射山神戸の南を流れ目沢であるとする説 富士見町御射山神戸の北であるとする説(具体的な河川名不明この中で最も地形的に説得力があるのが立場川説である。釜無川合流地点から立場川遡って八ヶ岳まで行くと、ちょうど自然な線となる。また、幾度となく水害引き起こしたほどの荒れ川であり、人の通行拒むような深い谷が長く続いているということも、比較等高線緩やかな八ヶ岳南麓高原区切る境界線として用いるには好都合であった思われる伝承では婚姻に基づく、いうなれば温和な経緯国境変更されたことになっている。しかし実際には、天正10年1582年)の甲州征伐による武田氏滅亡本能寺の変後天正壬午の乱の中で、諏訪実力回復した諏訪氏諏訪頼忠によって立場川から甲六川までの境筋が諏訪郡取り込まれる形で国境変更が行われ、天下統一成し遂げた豊臣秀吉諏訪氏への所領安堵によってそのまま甲六川国境線として確定したではないかとみられている。

※この「立場川甲信国境説」の解説は、「立場川」の解説の一部です。
「立場川甲信国境説」を含む「立場川」の記事については、「立場川」の概要を参照ください。

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