穴吹監督時代
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「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「穴吹監督時代」の解説
1983年 序盤に門田が7試合で5本塁打を放つが、4月18日に死球を受け一時離脱。代わって4番に入った香川が一時打率4割を越え首位打者となるが、夏場以降は成績を落とし、最終的に規定打席に到達しなかったものの打率.313、15本塁打を記録。山内和宏が18勝で最多勝、門田が本塁打王を獲得も、総合力不足から5位に終わる。 1984年 5月まで5割をキープするなど一時首位に立つが主力陣の相次ぐ故障などもあり6月には7連敗。オールスター直前には4位としたが、8月には15年ぶりとなる10連敗を喫するなど、5位に終わる。打撃陣に故障者が多く、外野手転向の河埜が打撃10位に入ったのが最高だった。一方、畠山準・藤本修二・加藤伸一の若手投手陣が30試合以上登板するなどの成長を感じさせた。 1985年 1月4日にレギュラー三塁手の久保寺雄二が急性心不全のため26歳で急死というショッキングな出来事から始まる。4月は5割とするが、5月と6月にともに6連敗、7月には連勝できずに最下位となり、一時5位に浮上するも8月8日以降は最下位に定着。9月に入り、18日には対近鉄戦で25-4というパ・リーグ新記録となる大量得点勝利を挙げるが、25日には穴吹の解任と杉浦忠の新監督就任が発表された。10月には1分を挟む10連敗など、借金32で最下位に終わる。
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