稲荷山古墳鉄剣銘文との対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
「日本書紀」の記事における「稲荷山古墳鉄剣銘文との対応」の解説
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、5世紀中頃の雄略天皇の実在を認めた上で、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承に一定の真実性を認めようとする意見も存在する。 発見された金錯銘鉄剣の銘文からは、5世紀中頃の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成していたことがわかる。その銘文には「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図が記されており、「意富比垝(オホヒコ)」を記紀の第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」(四道将軍の一人)と比定する説がある。また、川口勝康は「乎獲居(ヲワケ)」について、「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」とし、豐韓別命は武渟川別の子と比定しているが、鉄剣銘文においては弖已加利獲居(テヨカリワケ)は多加利足尼の子であるとする。
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