秋元家と水野家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 10:06 UTC 版)
3年間公儀御料(会津藩預かり)となり、明和4年(1767年)に秋元家が入部、4代78年間と最も長く在封した。弘化2年(1845年)上野国館林藩に転封し、その際に漆山に4万6千石が館林藩領(漆山陣屋)として廃藩置県まで残る。 最終的に同年に遠江国浜松藩より水野家が入部し明治維新を迎えた。水野家は、天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚したことによって、子の忠精が山形藩に左遷されたものだった。 幕末に山形藩は、周辺の米沢藩、仙台藩などとともに奥羽越列藩同盟に加わったが、同盟の主要な藩が降伏するなか山形藩も慶応4年9月17日(1868年11月1日)に新政府軍に降伏。2代藩主・忠弘は時に13歳と若年だったため、分家出身で当時26歳の家老・水野元宣が一切の責任を負って処刑された。明治3年(1870年)近江国朝日山藩に5万石で転封、以後は明治政府直轄の天領となったため、ここに山形藩は終焉した。
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