福島家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:05 UTC 版)
毛利家のあとは安芸・備後2か国40万2千150石の太守として、尾張国清洲より福島正則が入封した。正則は慶長6年(1601年)から再検地を実施し、高直しで49万8000石の朱印高を得た。毛利家時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なった。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立した。 慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)、一国一城令により、安芸国は広島城、備後国は神辺城(村尾城)を残し破却した(神辺城は、のちに福山城を築いて移った水野家により破却される)。備後国の三原要害(三原城)は、一城令より前に福島正之が追放されてから廃城となっていたが、発令後に福島氏は破却した鞆城の櫓を密かに移築したとも言われる。 しかし正則は大坂の陣が終わった後の元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上信濃国高井野藩(通称川中島藩)に転封された。実際は豊臣家恩顧の有力大名であり、大坂の陣によって江戸幕府が豊臣家を滅亡させたことに異を唱えたことによるものであったと思われる。
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