福島家没落後
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しかし、正則は江戸幕府開闢後も大坂城の豊臣秀頼の許を訪れるなど、豊臣家との距離の近さから家康に警戒されていた。その後、家康死去後の1619年(元和5年)には、広島城を幕府の許可なく修築したことを咎められて、正則は安芸・備後2国を没収され信濃国高井郡高井野で不遇のうちに息を引き取った。その後は加賀藩主である前田家に伝来し、徳川8代将軍吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』追加の部にも本作が記載されている。その後も前田家に伝来し、太平洋戦争終戦時まで伝来していた。なお、1933年(昭和8年)7月に重要美術品に認定されている。 その後、愛刀家であり“特殊鋼開発の父”として知られる渡邊三郎の手に渡り、1962年(昭和37年)2月14日には重要文化財に指定されている。その後、渡辺の息子・誠一郎の手に渡り、誠一郎より他の刀剣と共に東京国立博物館へ寄贈された。
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