神社設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 13:52 UTC 版)
神社建築に関して明治初年に「制限図」(神社建築制限図、官国幣社造営制限図)が制定され、社殿の形式・規模等の規格化が図られた。元々は予算を制限するために設けられたものだが、社殿を新築する際の指針となり、1912年に廃止された後にも影響を及ぼした。本殿は流造とし、本殿と拝殿の間に中門を置く形式で、創建時の明治神宮も基本的にこの形式をふまえている。 角南は制限図を批判していた。大正後期から昭和にかけての神社建築では、中門を置かず、本殿・幣殿・拝殿を一体化させた社殿が多い。本殿は流造を基本に千木、鰹木を乗せ、風雨の際の神事に支障がないよう拝殿と他の社殿との回廊を設置。大規模な社殿では内拝殿(神職用)・外拝殿(参拝者用)を設けた。これらの特徴は角南の構想によるものと見られる。戦後に再建された明治神宮も中門を廃し、内拝殿・外拝殿を設けている。 角南隆が神社局の中心になると「昭和造」と呼ばれる昭和期を代表する神社の姿が誕生し、「神社建築制限図」から脱却した。[要出典] 護国神社については、祭祀ならびに運営上、一般神社と異なり、祭典に祭神の遺族、関係団体等の多数の参列者がある。角南隆は拝殿前に広場を設ける配置を考案し、「拝殿等の祭典を行う社殿建築は、この広場と連携して祭儀の際にも支障なく、平時に於いてもよく調和するものでなくてはならぬ」と述べている。
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