神戸の教育思想の背景
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神戸は当時のヘルバルト派の教育が普及してる中で、デューイの『民主主義と教育』の考えを採り入れている。デューイの思想は及川平治によって紹介されていたので、神戸は及川の「学習過程論」の影響を受けたと思われる。また神戸は1918年10月から1920年の2年間に千葉命吉と共に附属小学校教員として働いており、千葉命吉の「創造教育の理論」の影響を受けたと思われる。 大正新教育運動以前に日本を支配していた教育方法は、ヘルバルト派の五段階教授法である。これは「予備・提示から比較・総括へ進む構成」となっており、帰納主義の立場で、「その認識論的な正しさは疑うことができない」とされていた。ところが新教育思想によって子供の学習過程・認識過程に改めて目が向けられるようになると、ヘルバルト派の間違い見いだされるようになった。 神戸伊三郎は抽象的な理論にとどまった千葉とは違い、及川の学習過程論をうけつぎ、それを理科の「新学習課程」として定式化した。神戸は著書に一冊の参考文献もあげず、自分の「新学習課程」を提唱するに至った経緯を全く説明していないが、その理論の内容とまわりの状況から、神戸の理論が突然孤立的に提出されたとは考えられない。
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