祖父・志賀直道
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1827年、磐城国相馬中村の城下町に生まれる。明治維新後は福島県の大参事という役職についていたが、困窮していた相馬家から請われ、月給25円の家令(事務、会計)を勤める。二宮尊徳の弟子でもあり、相馬家立て直しのため、開田、米穀販売事業を始め、相馬藩の産米を古河市兵衛の小野組糸店が扱ったことをきっかけに、小野組に金を預けて相馬家の資産を増やし、古河に資金提供して足尾銅山経営にも関わった(のち渋沢栄一も参加)。相馬家の親戚である織田子爵家、松前家、室賀家、菅沼家、佐竹家も経済支援した。気性の激しい妻・留女と対照的に、無口で温厚な性格だった。相馬事件では、旧藩主を毒殺した疑いで告訴され70余日拘留されたが、拘留中の出来事は一切話さなかったという。晩年は禅学に親しんだが食道癌を発症し数え80歳で死去。
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祖父 - 志賀直道
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「母の死と新しい母」の記事における「祖父 - 志賀直道」の解説
志賀直哉父方の祖父。旧藩主相馬誠胤を毒殺した嫌疑で73日間未決檻に入れられるが、証拠不十分で毒殺の事実が否定され釈放される。
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