磯部検三
磯部 検三[1](いそべ けんぞう、明治5年10月13日(1872年11月13日) - 1949年(昭和24年)8月3日)は、日本の医師、学校経営者。日本医科大学の前身・日本医学校の創立に事務責任者(肩書は「幹事」)[2]として関与し、のちに日本医科大学の維持員となった[3]。かつては本人の主張に基づき[3]日本医科大学の創立者として扱われていたが[2][4]、現在では創立者と見なされていない[5]。磯部の申し立てた経歴や業績には詐称や虚飾が多かったことが判明している[6]。
名前は検蔵[7][1]とも表記される。また嬰賓[4]、孔夏[4]、椿軒[8][9]とも号した。
経歴
明治5年(1872年)10月13日、長門国厚狭郡(現・山口県山陽小野田市埴生)の医師・重枝化甫の三男として生まれ[7]、叔父の磯部禎太郎の養子となった[10][11]。明治32年(1899年)頃には加藤時次郎の『千代田日報』紙で新聞記者をしていた[11]。
1983年出版の『日本医科大学80周年記念誌』で磯部の経歴は「済生学舎に学び、明治30年医術開業試験に合格」[4]とされていた。しかし明治40年(1907年)の『日本醫学』誌に本人が書いた文章[12]によれば、磯部が済生学舎の学生だったことはない[12][11]。また医学免状を受けたのは実際には明治30年(1897年)ではなく明治33年(1900年)で[13][14]、3年早く合格したと詐称していた[14]。
山根正次とは同郷であり、山根の書生であったほか、山根が警視庁第三部長のころはその秘書となっていた[15]。
明治37年(1904年)4月に山根を校長として日本医学校が創立されると、磯部は幹事(定数1名)としてその庶務を取り扱った[16]。同年10月に『日本醫学』を発刊し村田犀川とともに主幹となった[17]。明治43年(1910年)に山根校長が韓国衛生顧問として京城に赴任したため、校長代理として権力を伸ばした[2]。明治45年(1912年)の財団法人・日本医学専門学校設立申請の際は、申請者の筆頭に名を連ねている[18]。
大正5年(1916年)、磯部は専任理事兼学監を務めていたが、医術開業試験の廃止に伴う文部省による医学専門学校指定を受けられなかったために学生400名余りが退学し(彼らが学生となって新たに設立されたのが東京医学専門学校である)、大正7年(1918年)に引責辞任することとなった[19][20]。
大正6年(1917年)4月から昭和3年(1928年)2月まで4度にわたり衆議院議員総選挙に出馬したが、いずれも落選している[21][注釈 1]。
大正9年(1920年)戸水寛人を創立委員長とする「亜細亜炭礦株式会社」に創立委員として関与した[10]。同社は資本金1000万円、買収により一大炭鉱会社となすと称したが内実のない泡沫会社であったために翌年には解散し[26]、磯部も東京地裁に喚問された[10]。大正11年(1922年)に満洲に渡り『ハルピン日々新聞』を創刊した[27]。昭和7年(1932年)には満州に医学専門学校を設立する構想を発表して『医海時報』誌に取り上げられた[8][9](ただし続報なし)。この昭和7年時点で日本医科大学の創始者だと主張していた[8]。
昭和9年(1934年)6月2日、磯部は同窓会の幹部30名余りを集め、自身が日本医科大学の前身・日本医学校・日本医学専門学校の創立者であるという旨の演説を行い、長沢米蔵・河野勝斎らを味方につけ、当時の学長・塩田広重と争った[28]。上に述べたように財団法人設立筆頭申請者であったこともあり、この争いは磯部が勝利を収めた[28]。磯部は日本医科大学の「維持員」となるとともに[3]、昭和15年(1940年)編纂の『日本医科大学十五年記念誌』では「川上元治郎氏は・・・磯部検蔵氏を慫慂して学校の設立を要求し、磯部氏は先輩山根正次氏に諮り遂に私立日本医学校の設立を申請し・・・[29]」と記述され、以降の校史でも磯部を創立者とする記述が踏襲された[2]。
2006年編集の『学校法人日本医科大学創立百三十周年記念誌』では、磯部ではなく済生学舎創立者の長谷川泰が日本医科大学創立者として扱われている[5]。
昭和24年(1949年)8月3日、日本医科大学付属病院で死去した[7]。葬儀は駒込の吉祥寺で大学葬として営まれた[7]。
参考文献
- 日本医科大学 編『日本医科大学十五年記念誌』日本医科大学、1940年。doi:10.11501/1463424。[注釈 2]
- 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 編『日本医科大学80周年記念誌』学校法人日本医科大学、1983年11月12日。doi:10.11501/12116547。(
要登録)[注釈 2]
- 学校法人日本医科大学創立130周年記念出版実行委員会 編『学校法人日本医科大学創立百三十周年記念誌』学校法人日本医科大学、2006年4月22日。 NCID BA84122412。[注釈 2]
- 財団法人公明選挙連盟 編『衆議院議員選挙の実績 第1-30回』1968年3月1日。NDLJP:3026452。
- 唐沢信安「済生学舎廃校後の各種講習会及び私立東京医学校・私立日本医学校」『日本医史学雑誌』第41巻第1号、日本医史学会、1995年3月20日、41-73頁、ISSN 0549-3323、NDLJP:3359346/22。
- 小川功「“虚業家”による誇大妄想計画の蹉跌―亜細亜炭礦,帝国土地開拓両社にみるハイリスク選好の顛末―」『彦根論叢』第368号、滋賀大学経済経営研究所、2007年9月28日、45-64頁、ISSN 0387-5989。
- 唐澤信安、志村俊郎、殿﨑正明「磯部檢三と加藤時次郎について」『日本医史学雑誌』第56巻第2号、日本医史学会、2010年6月20日、256頁、ISSN 0549-3323。(オンライン版当該ページ)
脚注
注釈
- ^ 立候補選挙区は1917年の第13回衆議院議員総選挙では山口県郡部[22]、1920年の第14回衆議院議員総選挙と1924年の第15回衆議院議員総選挙では山口県第4区[23][24]、1928年の第16回衆議院議員総選挙では山口県第1区[25]。立候補名義はいずれも「磯部検蔵」。
- ^ a b c 『十五年記念誌』が1940年出版、『80周年記念誌』が1983年出版、『創立百三十年記念誌』が2006年出版となっており、3冊の出版年と周年数が互いに不整合に見える。これは『十五年記念誌』が専門学校から大学への昇格(1926年)を起算点とし[30]、『80周年記念誌』が私立日本医学校の設立(1904年)を起算点とし[31]、『創立百三十年記念誌』が済生学舎の設立(1876年)を起算点とした[32]ためである。
出典
- ^ a b 唐沢 1995, p. 56.
- ^ a b c d 唐沢 1995, p. 60.
- ^ a b c 唐沢 1995, p. 65.
- ^ a b c d 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 2, 「磯部 検蔵(創立者)」、当該ページへのリンク(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 学校法人日本医科大学創立130周年記念出版実行委員会 2006, p. 1, 「長谷川 泰(済生学舎創立者)」.
- ^ 唐沢 1995, pp. 57, 60, 66–67.
- ^ a b c d e 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 95.
- ^ a b c 「椿軒翁滿洲で醫專校」『醫海時報』第1962号1932年3月26日、24面。NDLJP:11184547/13。「『日本醫科大學』の創始者とも謂ふべき、椿軒磯部檢三氏は」
- ^ a b 「長春に長桑學舎設立」『醫海時報』第1968号1932年5月7日、28面。NDLJP:11184553/15。「椿軒磯部檢三氏は久しき以前からハルビン市に於て新聞を經營し」
- ^ a b c 小川 2007, p. 48.
- ^ a b c 唐澤 2010, p. 256.
- ^ a b 磯部檢三「山田良叔先生を
懐 ()ふ」『日本醫學』第32号、1907年5月25日、32-41頁。 33頁「私は済生學舎に學んだことは有りませんから、親しく先生の講義を承ることは遂にありませんでした」 - ^ 「医術開業試験及第者 明治三十三年十月」『官報』明治33年(1900年)10月23日、12頁、NDLJP:2948488/7。「山口県平民 磯部 検三」とある。
- ^ a b 唐沢 1995, p. 57.
- ^ 唐沢 1995, pp. 56, 61.
- ^ 唐沢 1995, pp. 54–56.
- ^ 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 278.
- ^ 唐沢 1995, pp. 63–65.
- ^ 唐沢信安「財団法人日本医学専門学校の学校騒動と私立東京医学専門学校の独立分離(下)」『日本医史学雑誌』第42巻第4号、日本医史学会、1996年12月20日、49-64頁、doi:10.11501/3359353、ISSN 0549-3323。
- ^ 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, pp. 34–37.
- ^ 唐沢 1995, p. 63.
- ^ 公明選挙連盟 1968, p. 313, 当該ページ:NDLJP:3026452/167.
- ^ 公明選挙連盟 1968, p. 327, 当該ページ:NDLJP:3026452/174.
- ^ 公明選挙連盟 1968, p. 344, 当該ページ:NDLJP:3026452/183.
- ^ 公明選挙連盟 1968, p. 362, 当該ページ:NDLJP:3026452/192.
- ^ 小川 2007, pp. 47–56.
- ^ 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 96.
- ^ a b 唐沢 1995, pp. 62–65.
- ^ 日本医科大学十五年記念誌 1940, p. 6, 当該ページへのリンク(国立国会図書館デジタルコレクション).
- ^ 日本医科大学十五年記念誌 1940, p. 1, 当時の学長塩田廣重による「序」(オンライン版当該ページ):「大學昇格以來第十五年を迎ふるにあたり、茲に記念誌を上梓することとなつた。」.
- ^ 日本医科大学80周年記念誌出版委員会 1983, p. 巻頭, 当時の学長乘木秀夫による「発刊に寄せて」(オンライン版当該ページ):「日本医科大学の前身である私立日本医学校が設置されてから、今年は80年に当たる。」.
- ^ 学校法人日本医科大学創立130周年記念出版実行委員会 2006, p. 巻頭, 当時の学校法人日本医科大学理事長赫彰郎による「発刊によせて」:「従来、学校法人日本医科大学の創立は私立日本医学校の創設を以って起算してまいりましたが、学内外の多くの方々より済生学舎設立を以って起算すべきであるとの意見が寄せられました。そこで改めて学内に『日本医科大学創立記念準備委員会』を設け、 〔中略〕 日本医学校(大学)の前身として済生学舎時代(28年間)があったことを認証し、今回、日本医科大学創立を済生学舎設立時(明治9年、1876年)を起算点とすることを委員会の総意で決め 〔以下略〕」.
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