石川流宣 (いしかわりゅうせん 1689?-1713?)
「流宣図」と呼ばれる日本全図の作者として知られる石川流宣は、本名を俊之といい、菱川師宣の弟子で、浮世絵師であり、俳人でもあった。浮世絵の木版技術を地図作成に利用し、貞享 4年(1687)に、絵画的要素が強い「本朝図鑑綱目」を作成した。元禄 4年(1691)には、さらにその傾向を強めた華麗な「日本海山潮陸図」を作成した。
「流宣図」は、その華麗さに相反して、日本の形などは当時の日本図に比べ粗く不正確であるが、山地、陸路、藩名、宿駅、知行所などのほか潮汐の干満早見盤までついたユーザーの要望によく応えた地図といえる。そのことから、その後次々と改版・作成が行われ、当時の庶民の旅行や異国への夢を膨らませるものとして愛用された。石川は、1708年に世界図「万国総界図」を作成し、「江戸紫」、「江戸図鑑綱目」などの絵本も著した。

石川流宣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 08:55 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動石川 流宣(いしかわ とものぶ、生没年不詳[1])とは、江戸時代の浮世絵師。
来歴
師系不明。作は菱川師宣または杉村治兵衛の画風とされている。姓は石川、名は俊之。俗称伊左衛門。画俳軒、河末軒流舟と号す。戯作名は踊鶯軒。『江戸図鑑綱目 乾』(元禄2年〈1689年〉刊行)の「浮世絵師」の項に「浅草 石川伊左衛門俊之」としてその名が見え、浅草に住んでいたことが知られる。作画期は貞享から正徳の頃にかけてで、元禄期の主要な絵師の一人といわれている。作は主に好色本、地誌など版本の挿絵を描き、戯作も執筆する。一枚絵はあまりないが、『増訂浮世絵』によれば流宣の一枚絵で「元禄頃と思はれる単純素朴な傘をさした版画」があるという。
また日本図、世界図、江戸図の木版地図の作画を手がけており、それらは「流宣図(りゅうせんず)」と呼ばれている。特に、芸術性と実用性とを備えた日本図は長久保赤水が登場するまで流行し、『日本海山潮陸図』は安永七年(1778年)まで、約90年、再版された[2]。
作品
- 『好色江戸紫』 貞享3年(1686年)刊行 ※古山師重挿絵、流宣作
- 『本朝図鑑綱目』 貞享4年刊行
- 『万国総界図』 元禄元年(1688年)刊行
- 『江戸図鑑綱目』 元禄2年刊行
- 『日本鹿子』 磯貝舟也作、元禄4年(1691年)刊行 ※地誌
- 『日本海山潮陸図』 元禄4年刊行
- 『日本山海図道大全』 元禄16年(1703年)刊行
- 『分道江戸大絵図』 宝暦6年(1756年)刊行
- 『吉原大黒舞』 宝永6年(1709年)刊行 ※吉原の評判記
- 『大和耕作絵抄』 刊行年不明、元禄初期か
- 『枝珊瑚珠』 刊行年不明
- 『勝詞記咄大鑑』 刊行年不明 ※菱川師宣挿絵、流宣作
- 「市野屋」 墨摺絵、枕絵組物の内 ※師重との合作
脚注
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 96頁。
- ^ 上杉和央『地図から読む江戸時代』 (『ちくま新書』1144 筑摩書房、2015年、p.174),ただし,海田俊一『流宣図と赤水図』(アルス・メディカ、2017年、pp.10-11)には安永7年以後の版が2種指摘されている。
参考文献
固有名詞の分類
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