短い再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 03:23 UTC 版)
1951年(昭和26年)に、木南車輛製造の取締役であった入江寅市と残った技術者が中心になって、戎島工場の跡地に「新木南車輛株式会社」が再興された。 このとき入江は、木南吉三に再び経営者になってもらうよう要請したが、当時、病院(現在の浜寺中央病院)と薬局を経営していた木南はこれを断っている。 新木南車輛は国鉄向けの貨車と熊本市電向けの電車を納入したが、経営は芳しくなく、1954年(昭和29年)に経営破綻(倒産)してしまい、その後二度と再興することはなかった。 これに対し、空襲で焼けた戎島工場の南半分は1950年(昭和25年)に木南車輌製造の専務取締役であった栗原直吉によって創業された泉州工機に売却され、同社工場が設置された。 同社は当初、汽車製造、帝國車輛工業、日本車輌製造、三菱重工業といった大手車両メーカーからの下請けで各種部品を納入したほか、1958年(昭和33年)には新潟鐵工所の下請けで三井芦別鉄道キハ100形の鋼体を、それ以後も汽車製造の下請けで国鉄DD20形ディーゼル機関車や国鉄DD53形ディーゼル機関車の鋼体をそれぞれ製作し納入するなどしており、木南の技術的遺産は、傍系となるこの泉州工機によって1970年(昭和45年)頃まで継承される結果となった。 なお、泉州工機は橋梁・水門・建設機械メーカーとして存続している。
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