白居易と新楽府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 03:57 UTC 版)
元和三年、三十七歳の白居易は、その年の四月、天子側近の諫官である左拾遺に任じられ、その翌年に「新楽府」五十首を作った。このことは「新楽府」の序に、「元和四年、左拾遺たりし時の作」とあることから知ることが出来る。「新楽府」を作った意図は、作者自身が記した序文に、「その辞は質にして怪、これを見る者をして諭り易からんことを欲すればなり。その言は直にして切、これを聞く者をして深く誡めんことを欲すればなり」と、結論には「総じてこれを言はば、君の為にし、物の為にし、事の為にして作り、文の為にして作らざるなり」と説明している。さらに友人の元稹に送った手紙「与元九書」(「与元九書」は、元和十年、白居易が四十四歳、江州司馬に左遷されていたおりに記されたもの)に、「武徳より元和に訖るまで、事に因りて題を立て、題して新楽府と為す」と言っている。つまり、唐代に見られたさまざまな社会現象や、それを対象にして政治批判・社会批判をする文学として意識し、作ったものであったのだ。白居易は、こうした類の意識に基づいた詩を「諷諭詩」と呼び、「諷諭詩の中にこそ、自分の文学の生命がある」と、「与元九書」において述べている。 白居易の「新楽府」五十首は、その題材を唐王朝の歴史社会に取ったのであるが、作品に取り上げられている事柄と歴史的事実との関係は、さほど明らかではない。玄宗皇帝時代のことを題材にするものが多いことは、作品から想像されるが、それも明確にある事件を直叙すると言った言い方は避けている。 五十首全部の題が、白居易の創出にかかったものではない。白居易の友人でもあった李紳が、既に新題を設けて楽府作品を作っており、白居易は李紳の新題にあやかって、さらに拡充させたものもあったのだ。このことは、元稹の「李校書新題の楽府十二首に和す」の「序」から知ることが出来る。元稹のその序によれば李紳は楽府新題二十を設定し、そのうち十二に、元稹が和したという(李紳の作品は、現在一首も残っていない)。元稹が和した十二首は、『元氏長慶集』に見られ、その十二首の題は、すべて白居易の「新楽府」五十首の中に含まれている。 「与元九書」において、「諷諭」の姿勢の必要を説いていた白居易であったが、『白氏長慶集』の編集された長慶四年(824年、白居易五十三歳)以後、中唐文学において「諷諭」の姿勢は急激に萎え、彼もまた諷諭詩人たることをやめたのである。
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