画風と教え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 17:28 UTC 版)
早世したため作品は非常に少ない。迫真の描写や正確なデッサンに支えられた、人物画や寺社仏閣などの風景画といった初期の洋画家らしい作品が残っている。幸彦は「眼で見へるものが画に描けぬ事はない、それが出来なければ、正確なものは出来ぬ」と語ったという。教授法も工部美術学校譲りの古典式だった。作画の際には、袴を着せて正座させ、あたかも戦場に向かうような気持ちで絵筆をもたせたという。デッサンに厳しく、墨絵で少女を写生して唇が赤く見えるよう、垢と影を描き分けさせた。時には、1枚のコンテ画模写に数日を費やすほど厳しく精密に教授する一方、絵の具を使うのは容易に許さず、墨画を十分に描けなければ色は役に立たないと教えた。このように幸彦の教えは技術面に偏り、思想面に欠けているが、一方で塾生たちはここで絵画技術を十分に身に着けていたため、黒田清輝らが持ち帰った新様式に素早く対応できたとも言えよう。
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