甲府城下町と甲府道祖神祭礼
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「甲州日記」の記事における「甲府城下町と甲府道祖神祭礼」の解説
甲府城下町は近世初頭の慶長6年(1601年)に改築された甲府城を中心に発展した城下町で、近世初頭に甲州街道の整備が行われ江戸文化が往来し、富士川の開鑿による富士川舟運も開始され人々の往来が盛んになっていた。 一方で、広重が甲府を訪れた18世紀には在方商業が発達した影響を受けて甲府城下の経済は地盤沈下を引き起こしており、加えて天保年間には飢饉や疫病の流行が多発したことにより城下の人口も減少している。また、天保7年(1836年)に甲斐一国規模の百姓一揆となった天保騒動においては城下でも打ちこわし被害を受けている。甲斐国では近世には甲府城下のみならず在方においても小正月の道祖神祭礼が行われているが、甲府道祖神祭礼について広重来甲以前では宝暦2年(1752年)の『裏見寒話』、文化13年(1816年)『日本九峰修行日記』などにおいて盛大な祭礼であったことが記されている。道祖神祭礼において幕絵で表通りを飾る行いについては初見資料が「甲州日記」で、天保12年の広重来甲が甲府道祖神祭礼における重要な契機になっていたと考えられている。 「日々の記」に拠れば広重は4月14日の段階で手付金として五両を受け取っているが最終的に受け取った額はその数倍になると想定されている。甲府道祖神祭は天保12年以後も継続しているが、明治後には弊習の禁止令が発令され、道祖神祭礼は廃絶している。
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