生物とその利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 15:27 UTC 版)
干拓前は漁業が盛んに行われていた。当時は汽水湖だったため、シジミが多く採れていたほか、シラウオやカレイ、ボラ、コイなどが水揚げされていた。春から秋にかけては巨大な白い帆を張った長さ12m程度の「潟船」(かたぶね)による、冬は氷を割っての人力による引き網が主だった。潟船は霞ヶ浦(茨城県)から伝わった。また「モク」と呼ばれる沈水植物が家屋の雪囲いや敷物、肥料などに使われていた。八郎潟漁業についての資料や漁具は、潟上市の道の駅てんのうで保存・展示されている。 八郎潟では氷下漁労が行われた。1794年(寛政6年)久保田城下上肴町の高桑與四郎が、諏訪湖に赴いて氷下漁労法と漁網制作法を伝授され、その方法を八郎潟の漁民一般に伝え大いに業が盛大になった。1804年(文化元年)高桑與四郎の上申によって久保田藩は魚役銀上納の制度を定めて、同人に漁業取締と銀取立役を命じ、役銀の半分を同人に賞賜し篤志と功労に報いた。 干拓後の漁業は八郎潟調整池での限定的なものとなり、淡水化によってシジミの収量も減少している。冬期間は凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。
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