現在の敦賀城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 05:31 UTC 版)
敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、南は三島町の霊山院から稲荷神社、東は水路の残る旧笙の川沿い付近で西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のライン、で囲まれる南北500m、東西300mの範囲という。現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはないが、以下の遺構などがある。 敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれている。2009年、新校舎建設に伴い、小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見された。 来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられる。 来迎寺の書院には、腰高障子13枚が残る。敦賀城破却時に移されたと伝わる。 真願寺には、敦賀城の礎石が残る。本寺は敦賀城域の北西隅に当たるという。 真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われる。また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っている。 八幡神社には、敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居がある。 西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったようである。 関ヶ原合戦後、福井藩主となった結城秀康によって、代官が派遣されたことから、結城町の地名が残る。
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