王莽の圧力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:42 UTC 版)
烏珠留若鞮単于(在位:前8年 - 後13年)の代、漢では新都侯の王莽が政権を掌握し、最大の権力者となっていた。この頃から漢の匈奴に対する制限が厳しくなり、他国からの人質、投降者、亡命者などの受け容れを禁止する4カ条を突き付けられた。呼韓邪単于以来、漢の保護下に入っていた匈奴はそれを認めるしかなかった。 始建国元年(9年)、王莽が帝位を簒奪、前漢を滅ぼして新を建てた。王莽は五威将の王駿らを匈奴へ派遣し、単于が持っている玉璽を玉章と取り換えさせた。その後、烏珠留若鞮単于は元の玉璽を欲したが、既に砕かれており、戻ってくることはなかった。 翌始建国2年(10年)、西域都護但欽(中国語版)に殺された車師後王須置離(中国語版)の兄である狐蘭支(中国語版)が民衆2千余人を率い、国を挙げて匈奴に亡命した際、王莽による一連の政策に不満を感じていた烏珠留若鞮単于は条約を無視してこれを受け入れた。そして狐蘭支は匈奴と共に新へ入寇し、車師を討って西域都護と司馬に怪我を負わせた。時に戊己校尉史の陳良(中国語版)らは西域の反乱を見て戊己校尉の刁護を殺し、匈奴に投降した。
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