王制への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 15:51 UTC 版)
カポディストリアスの死後、弟のアウグスティノス、軍事指導者コロコトロニス、政治家コレッティスらにより暫定統治委員会が形成されたが、内部対立が生じ、これは内戦へ至ることとなった。1832年春、コレッティスの攻撃により、アクグスティノスは委員会から離脱、さらにコロコトロニスは敗北した。これらの勝利をうけてコレッティスは7月、プロニアで議会を召集、憲法制定を画策したが、列強三国はこれを認めなかった。そのため、コレッティスの部隊は議会を襲撃、再びギリシャには不穏な空気が流れることとなったが、これはフランス軍が鎮圧した。 その頃、列強三国はオスマン帝国大宰相府(中央政府のこと)で長時間にわたる議論の末、国境を制定、さらに世襲制の君主を抱く王国化することを決定、その王にイギリス、フランス、ロシア、いずれとも直接の系譜につながらないヨーロッパの王族が選ばれることとなった。 その頃、列強三国とバイエルン政府は1832年5月7日、条約に調印、ウィッテルスバッハ家のオットー(ギリシャ名オソン1世)がギリシャの王となることが決定され、ギリシャは列強三国の『保護国』として独立することとなったが、あるイギリス人はこれを『独立なんぞお笑い種』と表した。 1833年2月、オソン1世は仮首都、ナフプリオンへ到着、ギリシャ王国が成立した。
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