爵位と役職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 20:18 UTC 版)
「リチャード・ボイル (初代バーリントン伯爵)」の記事における「爵位と役職」の解説
1642年9月2日、リチャードは弟ルイスの死により、第2代キナルミーキーのボイル子爵 (英語版) 位を承継した。翌1643年9月15日に父が亡くなり、第2代コーク伯爵位を承継、さらに翌1644年11月4日、チャールズ1世によりヨークシャーにおいてクリフォード・オブ・レーンズボロー男爵に叙爵された。 王政復古後、1660年2月22日にリチャードはヨークシャー州とウォーターフォード県の主席治安判事 (Custos Rotulorum) になり、1660年3月19日には、前年11月30日のチャールズ2世の宣言に基づき、アイルランドとの和解を検討する協議会委員の一人に任命された。さらに1660年11月16日に枢密顧問官とアイルランド大蔵卿に任命された。1661年6月25日には、リチャードはアイルランド大蔵卿として、アイルランド貴族院 (英語版) において全ての貴族の上に立つこととなった :172 。 1664年3月20日、リチャードはチャールズ2世によりバーリントン伯爵位を叙爵され、1666年3月13日にはヨークシャー統監に任命された :172 。 リチャードは、他の貴族やアイルランド国教会主教達とともに、ジェームズ2世によるカトリック教会尊重の企てに反対し、1688年11月17日にジェームズ2世に対し議会を「いかなる状況下でも規則的かつ自由に」(regular and free in all its circumstances) 招集できるよう請願を行ったが、この申し出は拒絶された。ウィレム3世(後のウィリアム3世)がイングランドに到着すると、ジェームズ2世は議会を招集したアイルランドへ移り、反プロテスタント法を成立させて領地を没収した。その中にはリチャードの不動産も含まれていた。この処分は翌年にウィリアム3世により覆された :173 。
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