爛柯への言及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/26 09:30 UTC 版)
唐代の孟郊による「爛柯山石橋」や、白居易・劉禹錫などが、爛柯山についての詩を詠んでいる。『西遊記』の第十回、太宗と魏徴が布陣した場面では「爛柯経に云わく」として戦術論が述べられている。 菅原道真の『菅家文草』に収められる「囲碁」と題する詩では、「若得逢仙客 樵夫定爛柯」(若し仙人に逢えば樵の斧は柄は腐るだろう)と結ばれている。『古今和歌集』には紀友則「故郷は 見しこともあらず 斧の柄の くちし所ぞ 恋しかりける」という、碁仲間を思う歌が収められている。 近松門左衛門『国性爺合戦』の第四段「碁立軍法(九仙山)」では、明の幼太子を連れた呉三桂が放浪の末に江化府の九仙山に登ると、二人の老翁が碁を打っており、碁盤を世界に見立てた呉との会話に「軍は華の乱れ碁や、飛びかふ烏、群居る鷺と譬えしも、白き黒きに夜晝も、別で昔の斧の柄も、おのづからとや朽ちぬべし」とある。呉は翁に促されて、日本から来た国性爺が明の復興のために中国全土で戦を繰り広げる様を、山頂から一瞬で幻視する。 江戸時代の囲碁棋士林元美は、欄柯堂の筆名を用い、『爛柯堂棋話』などの著作を残した。日本棋院は1925年に、機関誌『棋道』の姉妹誌として『爛柯』を創刊し、後に『囲碁クラブ』に改名された。
※この「爛柯への言及」の解説は、「爛柯」の解説の一部です。
「爛柯への言及」を含む「爛柯」の記事については、「爛柯」の概要を参照ください。
- 爛柯への言及のページへのリンク