熊野神社と高尾山穂見神社とは? わかりやすく解説

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熊野神社と高尾山穂見神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:41 UTC 版)

高尾山古墳」の記事における「熊野神社と高尾山穂見神社」の解説

かつて高尾山古墳前方部には熊野神社後方部には高尾山穂見神社があった。前方部にあった熊野神社創建年度は不詳である。だが、1570年元亀元年)の熊野神社由来によれば勧請の年から何百年経ったかは古い昔の話なのでわからないものの、熊野神社社名取って熊野堂という名が付けられたという。やがて熊野堂現在のように熊堂呼ばれるようになったその後江戸時代には社領下賜があり、1875年明治8年)に村社に列せられた。1923年大正12年)には社殿改修され瓦葺となった一方高尾山穂見神社は、1846年弘化3年10月東熊堂川村喜兵衛ら7名が、現在の山梨県南アルプス市にある高尾山穂見神社分祀願い願い聞き届けられ分霊東熊堂上荒久の地に祭ったことにより創建された。その後参拝者多かったため、交通の便良い熊野神社境内1888年明治21年)に移転し社殿高尾山古墳後方部に建てられた。 この熊野神社穂見神社の二社は代々物部氏祖神として各地代々祀ってきた神社で、古墳被葬者と見られる物部氏一族珠流河国造の子孫が後世勧請したものと見られる高尾山穂見神社商売繁盛神様祀っているとして、祭礼時には縁起物だるまや熊手商う露店などが多数並び沼津市内のみならず近隣からも多く参拝者が集まる。高尾山穂見神社縁結びご利益もあるとして、祭礼時には女性参拝客も多い。昭和30年代頃までは我入道静浦漁師たちが、祭礼の日の夜更けになると沼津花街芸者衆を率いて祭り参加していたといい、たいそう華やかであったという。また高尾山古墳近隣では、祭礼までに麦まき作業終え習慣があった。なお高尾山穂見神社祭典は、かつては11月30日12月1日行われていたが、日取り平日になると近隣住民の手伝い難しくて人員の確保が困難となってきたため、1977年昭和52年)からは11月最終土日行われるようになった

※この「熊野神社と高尾山穂見神社」の解説は、「高尾山古墳」の解説の一部です。
「熊野神社と高尾山穂見神社」を含む「高尾山古墳」の記事については、「高尾山古墳」の概要を参照ください。

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