熊本や阿蘇での反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/17 08:42 UTC 版)
昭和33年(1958年)9月、阿蘇郡長陽村(現南阿蘇村)の数鹿流ヶ滝付近に東海大学農学部を設置した松前重義は純白の大理石の孝女白菊の碑を建てた。なお、碑文は松前の夫人の筆になる。しかし、特別のゆかりの地ではなく、滝見物にもよかろうという現地の人の意見によった。「清水寺」というのがあり、白菊ゆかりの寺だとか、その他、こじつけた話は多いが、孝行少女の話である。宣伝につかってもよろしかろうという意見もある。 昭和26年(1951年)に熊本の荒木精之は「阿蘇の伝説」の中で孝女白菊の話として4ページに概要を記述、また昭和36年(1961年)に山崎貞士は松前が建てた記念碑を紹介した。福岡出身の野田宇太郎は九州文学散歩で実地を訪ね実話としている。熊本の文化財保護専門委員の笹原助は熊本出身の池辺義象(西郷方熊本隊隊長池辺吉十郎の従弟の子)は東大の古典科で落合直文と同級生であった。阿蘇の峰や谷の変化に富む地勢を落合直文によく説明してやったとある。 荒木精之や内田守によると、白菊物語がフィクションであるが、史実を問題にする必要はなく、阿蘇の名前で宣伝になれば、いいとしている。
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