焼身自殺と政治家転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/28 20:20 UTC 版)
「ヨセバ・エロセギ」の記事における「焼身自殺と政治家転身」の解説
フランコ独裁政権末期の1970年、フランコ派の学者リカルド・デ・ラ・シエルバは、ゲルニカ爆撃がコンドル軍団によるものであることを、フランコ派として初めて認めた。また、8月5日には同じくフランコ派の学者ビセンテ・タロンによる『燃えるゲルニカ』が出版されたが、ゲルニカ爆撃にフランコの責任はないとしており、54歳になっていたエロセギはこれらの見解に激怒した。9月18日、サン・セバスティアンのアノエタ競技場(現アターノ3世競技場)でハイ・アライの国際試合が行われ、フランコ夫妻は貴賓席から観覧していた。開会が宣言された時、エロセギは全身にガソリンを浴びてから自らの身体に火を付け、火だるまになりながら「バスクの自由バンザイ」と叫び、下階の貴賓席に座るフランコの面前に上階から飛び降りた。死を覚悟しての焼身自殺だったが、エロセギは一命を取り留め、8カ月間入院した後に4年間入獄した。1971年にはフランスのボルドーで、「象徴的に、ゲルニカの火をフランコの下に運びたい」ための行動だったとする原稿が出版された。 1975年にフランコが死去し、スペインが民主化への移行期を迎えると、エロセギはバスク民族主義党選出のスペイン上院議員となった。1986年、バスク民族主義党からカルロス・ガライコエチェアを筆頭とする党内左派がバスク連帯(EA)として分離した際には、エロセギもバスク連帯の一員となった。74歳だった1990年、サン・セバスティアンで死去した。
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