瀬栄合資会社と水野保一
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「防衛食容器」の記事における「瀬栄合資会社と水野保一」の解説
瀬栄合資会社は1896年(明治29年)設立。 防衛食容器制作時の社長であった水野保一は1886年(明治19年)に岐阜県土岐郡妻木町(のちの土岐市妻木町)に生まれ、1908年(明治41年)に陶磁器の会社水野商店を設立後、「瀬戸の家康」と呼ばれた瀬栄合資会社の支配人である加藤鎮三郎の長女はると結婚。娘婿となる。1919年(大正8年)には加藤と水野を代表とし、水野商店と瀬栄合資会社が合併して瀬栄合資会社の屋号が残る。1929年(昭和4年)には守山市に、1934年(昭和9年)には瀬戸に製陶工場を建設。戦前は欧米向けの輸出品が中心だった。戦中には防衛食容器のほか四式陶製手榴弾を製造し、1945年(昭和20年)8月の終戦まで作り続けた。 水野保一は1963年(昭和38年)にがんで死去。水野の死後、瀬栄合資会社は1967年(昭和42年)に瀬栄陶器株式会社となる。武者小路実篤の言葉である「仲よき事は美しき哉」と書かれた絵皿が特に有名。「Seyei」「セーエー」などの表記がある。2014年(平成26年)に破産手続きが取られた。
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