演出者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 00:05 UTC 版)
財団法人日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三、事務総長理事は初代が新井真一(元通産省官僚、のちに実業家)。新井はテーマの画策、テーマ館の総合プロデューサーを岡本太郎に依頼、説得するなど奔走したが志半ばで更迭された。理由は定かではないが、何らかの政治的な力学が働いたのではとメディアは伝えている[要出典]。2代目は鈴木俊一(のちの東京都知事)。 開会式の演出は内海重典(宝塚歌劇団演出家)、閉会式演出は内海と同じく宝塚歌劇団の高木史朗が担当した。 SF作家の小松左京は自発的にプロジェクトに参画し、1965年7月に文化人類学者の梅棹忠夫、社会学者の加藤秀俊らと「万国博を考える会」を発足。同年10月に第1回総会を開催、その後BIE(パリの博覧会国際事務局)に提出するテーマと基本理念づくりのため草案を練り、テーマが「人類の進歩と調和」に決まった。小松はその後、テーマ展示プロデューサーに就任した岡本太郎との個人契約という形で、テーマ展示サブプロデューサーとして太陽の塔の地下展示を作り上げた。 万博会場の総合設計を行ったのは建築家の丹下健三であった。 ベンチや案内表示、照明、ゴミ箱などのストリート・ファニチャーの設計は榮久庵憲司ひきいるGKインダストリアルデザイン研究所が担当。このようなストリートファニチャーをはじめとした環境デザインの考え方は全国の駅や都市計画へと普及していった。 会場やパビリオンには随所にメタボリズムの意匠が見て取れる。黒川紀章や菊竹清訓らメタボリストたちは、広大な敷地に会期の間だけ「都市」を出現させ、終わったらすべてを無に帰すという博覧会の特徴が上手くメタボリズムと適応したためか、大阪万博以降の博覧会(沖縄海洋博など)にも関与した。
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