源平合戦と、その後とは? わかりやすく解説

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源平合戦と、その後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:56 UTC 版)

常陸平氏」の記事における「源平合戦と、その後」の解説

1180年源頼朝挙兵すると、常陸平氏縁戚佐竹氏同族越後平氏と共に敵対する構え見せた常陸平氏中でも小栗重成鹿島政幹早い時期頼朝に従っている)。しかし、佐竹征伐(この時の源氏勢の中枢担ったのが房総平氏の上総介広常と千葉介常胤である)以降頼朝服属する形を採り、屋島の戦い鹿島宗幹・弘幹が戦死している。こうした戦乱激化は一旦は解体方向向かっていた常陸平氏再編成するきっかけになった思われる鎌倉幕府成立する惣領多気義幹直幹の子)は失脚し吉田氏系統属す馬場資幹がその座に就いた(もっとも、常陸平氏解体過程にあったとする見解に基づけば、常陸平氏の「惣領」の存在自体が既に消滅しており、多気義幹常陸平氏有力者に過ぎない)。資幹は頼朝意向によって常陸大掾任じられたが、これは未だに強い力残した常陸国在庁官人再編成が進む常陸平氏頼朝統制下に組み込むための政策であった考えられ、資幹の常陸大掾地位頼朝によって新たに与えられ所職惣領地位頼朝によって人為的に作り出され立場であった(勿論、「大掾」の地位与えられ背景には平為幹ら祖先任じられ地位であったことが背景にあった考えられる)。言わば、後世常陸平氏」として知られる集団源頼朝馬場資幹の下で再編成され結果生み出され新たな一族集団であったと言える以後馬場氏(資幹の一族)は「大掾氏」とも称され1591年佐竹氏によって討滅されるまで、常陸平氏大掾氏吉田氏馬場氏)を中心として存続していくことになる。

※この「源平合戦と、その後」の解説は、「常陸平氏」の解説の一部です。
「源平合戦と、その後」を含む「常陸平氏」の記事については、「常陸平氏」の概要を参照ください。

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