源平合戦と伯耆の内乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 15:19 UTC 版)
前述したように平安末期の伯耆は紀氏と小鴨氏の二大勢力が存在しており、両氏の勢力拡大の折、度々衝突、合戦が行われていた。当時中央では治承・寿永の乱(源平合戦)が行われており、その影響は地方にも拡大していた。伯耆でも当初平家側であった成盛ら西伯耆の武士が源氏方につくことにより平氏の小鴨、源氏の紀(村尾)という中央の対立を反映した構図が出来上がり、以前から続いていた抗争に拍車をかけることになった。「吉記」によると寿永元年(1182年)8月、成盛は小鴨基保との間で隣国の武士をも巻き込む大規模な合戦を行い勝利、2年後の寿永3年には「院の御子」を称する者を担ぎ上げて一時は伯耆の半分、美作国の一部を支配下に入れた。(「玉葉」寿永3年2月2日の条)「小鴨家系図」によれば当時、平宗盛の求めに応じて出兵中であった小鴨基保は急遽帰国して成盛の軍と戦った。
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