源平対立時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:15 UTC 版)
院政時代全国の在地支配層は、こぞって中央の有力者に荘園を寄進してその庇護を受け、院の武者として勢力を拡大しようとした。4代菊池経宗・5代菊池経直が鳥羽院武者と記録されていることからも、菊池氏がその例に漏れなかったことが推定される。このころまでに菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力として定着拡散して行ったことが分かる。 平家台頭後は日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人と化したが、1180年(治承4年)源頼朝が兵を挙げると翌1181年(養和元年)6代菊池隆直は養和の乱を起こして平家に反抗した。隆直は翌年平貞能の率いる追討軍に降伏し、以後、平家の家人として治承・寿永の乱(源平合戦)に従軍したものの、壇ノ浦の戦いにおよんで源氏方に寝返り御家人に名を連ねた。源平の間を揺れ動いたことで頼朝の疑念を招き、隆直への恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を本拠地周囲に配置され、その牽制を受けた。
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