渡辺了(わたなべ さとる) 1562~1640
○勘兵衛 吉光? 印斎 水庵
◇父:渡辺右京 養父:渡辺周防守任 室:阿閉貞征妹 子:渡辺長兵衛守
近江・山本山城主阿閉貞征に仕える。その後、羽柴秀吉に仕え、秀吉の養子秀勝(織田信長四男)付きとなり、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦等に参加。秀勝死後は、近江・水口城主中村一氏に仕えて小田原征伐に参加し戦功をたて、秀吉から「捨てても一万石は取るべきもの」と賞された。戦後、恩賞の不服から中村家を去って後、大和・郡山城主増田長盛に家老として仕えるが、長盛は関ヶ原の戦いにて西軍についた為、高野山追放処分となる。この時郡山城を守っていた了は、長盛の書状が来るまで頑として開城しなかった。この時郡山城に入った旧知の藤堂高虎から、総石高の1割にもあたる2万石で迎えられるが、大坂の陣にて高虎と戦術面で意見の衝突から怒りを買って改易され、他家奉公も差し止められる。後に藤堂氏から帰参の申し入れが再三あったが、幕府直臣以外は受けぬとしてこれを固辞し、諸大名の捨て扶持を受けながら過ごした。 亘理元宗(1530~1594)
◇父:渡辺右京 養父:渡辺周防守任 室:阿閉貞征妹 子:渡辺長兵衛守
近江・山本山城主阿閉貞征に仕える。その後、羽柴秀吉に仕え、秀吉の養子秀勝(織田信長四男)付きとなり、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦等に参加。秀勝死後は、近江・水口城主中村一氏に仕えて小田原征伐に参加し戦功をたて、秀吉から「捨てても一万石は取るべきもの」と賞された。戦後、恩賞の不服から中村家を去って後、大和・郡山城主増田長盛に家老として仕えるが、長盛は関ヶ原の戦いにて西軍についた為、高野山追放処分となる。この時郡山城を守っていた了は、長盛の書状が来るまで頑として開城しなかった。この時郡山城に入った旧知の藤堂高虎から、総石高の1割にもあたる2万石で迎えられるが、大坂の陣にて高虎と戦術面で意見の衝突から怒りを買って改易され、他家奉公も差し止められる。後に藤堂氏から帰参の申し入れが再三あったが、幕府直臣以外は受けぬとしてこれを固辞し、諸大名の捨て扶持を受けながら過ごした。 亘理元宗(1530~1594)
渡辺了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/29 06:01 UTC 版)
渡辺 了(わたなべ さとる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。諱は吉光とも伝わる。号は睡庵。
- ^ a b c 黒田惟信 1927, p. 788
- ^ a b c d 黒田惟信 1927, p. 787.
- ^ 通称は長兵衛。長男・守は高虎の異母妹の華徳院を妻として4,000石の禄を食み、2人の間に生まれた守胤は藤堂姓に改姓し、藤堂家家臣として家系は続いた[2]。
- ^ 次男。通称は三郎兵衛。本多忠義(能登守)に仕えて知行1,500石[2]。
- ^ 三男。堀田正信(上野介)に仕えて、知行2,000石。晩年は不誰と号した[2]。
- ^ a b c d e f g h i j k 黒田惟信 1927, p. 786
- ^ 旧浅井郡速水村。
- ^ この養母の阿閉貞大の娘は、慶長18年(1613年)8月8日まで生きたとあり[1]、かなり若かったようだ。
- ^ 湯浅常山「国立国会図書館デジタルコレクション 辻小作・中黒道随が事」『常山紀談』博文館〈続帝国文庫 ; 第31編〉、1909年 。
- ^ 江戸時代中期の『常山紀談』のエピソードとして、丹羽山城(助兵衛)、谷出羽、笹野才蔵、稲葉内匠、中黒道随、渡辺勘兵衛、辻小作は義兄弟の約束をして武勇に励み、立身を誓い合って「天下七兄弟」と呼ばれたというものがある[9]。
- ^ 後にこの体験談を書き記した「渡辺水庵覚書」を残している。
- ^ 仕官を他の家にさせないようにする願い。
[続きの解説]
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