清水谷商会の繁盛
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銀座は1872年〈明治5年〉の大火を契機に、煉瓦造りによる商店街(銀座煉瓦街)が作られた。西洋酒問屋「清水谷商会」は1877年〈明治10年〉、京橋区尾張町1丁目に開店、桜田ビールのほかワインやウィスキーを輸入販売した。問屋という名称は江戸時代と同様、当時もステイタス・シンボルであった。清水谷商会は洋酒の立ち飲みもさせる店であり、当時の銀座の賑わいの一端を担う繁盛店となった。 明治18年発行の 『東京商工博覧絵』 は当時の銀座界隈の商店・事業所を一店ずつ銅版画で紹介しており、「清水谷商会」 とともに、尾張町新地の 「友常組商会」 も載っている。友常組商会は慎の妻の弟・友常穀三郎に頼まれて資金を出し開店したという。 また、銀座4丁目に「山口屋」 という輸入タバコ店も構え、桜田ビール、清水谷商会とともに外国人居留者に向け英字新聞広告を出している。 慎がペルーへ向かいサンフランシスコに寄港したとき、カリフォルニアでワイナリーを営んでいた長澤鼎(かなえ)が訪れ、ワインの販路についての交渉をした。が、清水谷商会の倒産により話は絶えてしまう。長澤は薩摩藩の第一次英国留学生の一人で、後にカリフォルニアのワイン王と呼ばれるようになった。江戸東京博物館(2022年現在改修工事のため長期休館中)には 「文明開化 東京銀座煉瓦街」 というジオラマ展示があり、改修以前には上記銅版画などをモデルに作成された清水谷商会、のちには友常組商会が常設展示されていた。
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