泰山の諸将とは? わかりやすく解説

泰山の諸将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 17:39 UTC 版)

臧覇」の記事における「泰山の諸将」の解説

県の獄掾であった父の臧戒は法に厳格で、太守不正に人を処刑しようとするのを拒絶した太守激怒して臧戒を逮捕したが、これを知った臧覇18歳にして食客数十人を率い100余名護送役人囲まれた父を費西山の中で奪い返し東海郡亡命した。これによって勇壮世に知られるようになった黄巾の乱が起こると、陶謙従い黄巾賊討ち騎都尉拝命した。 その後徐州で兵を集め孫観呉敦尹礼昌豨らを率い開陽駐屯して独立勢力となった。後に徐州得た呂布は、自分袁術臧覇挟まれるになっていることを警戒した(「呂布伝」)。 建安2年197年)、臧覇琅邪国相の蕭建撃ち破り莒県占領した蕭建味方取り込んでいた呂布は、高順諫めるのを聞かず臧覇攻撃したが、臧覇善戦してこれを撃退した。後に呂布臧覇和解し同盟関係となった(『英雄記』)。 建安3年198年)、呂布曹操攻められた際、臧覇呂布味方をして兵を出したが、呂布敗死すると逃亡し身を隠した曹操懸賞金をかけて臧覇を捕えさせたが、会ってみたところ臧覇気に入ったため、臧覇命じて孫観らを自らの元にかせようとした。臧覇が彼らに促すと皆帰順し太守国相として取り立てられた。臧覇琅邪国相に任命され青州徐州統治実質的に委託された。 かつて曹操配下将軍であった徐翕・毛暉は、兗州呂布担いで反乱起こし失敗する臧覇の下に亡命してきた。曹操劉備語り臧覇に徐翕・毛暉の首を送るよう説得させた。臧覇は「私が独立勢力となったのは、亡命者裏切るような不信義をしないからです。大恩ある曹公の命令に背くつもりはありませんが、王覇君主には義を告げてよいと聞きます」と劉備説いた曹操劉備から臧覇言葉聞く歎息し、「亡命者匿うのは古人の事であるが、君がよく行なったのは私の願いである」と臧覇告げ、徐翕・毛暉を赦して彼らを郡太守にしたという。

※この「泰山の諸将」の解説は、「臧覇」の解説の一部です。
「泰山の諸将」を含む「臧覇」の記事については、「臧覇」の概要を参照ください。

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