蕭建とは? わかりやすく解説

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蕭建Xiao Jian

ショウケン
セウケン

(?~?)
琅邪

琅邪国の相。東海の人《呂布伝》。

建安年間一九六~二二〇)、呂布徐州占拠して下邳屯した。呂布は莒城の蕭建に手紙送り、「呂布楽毅ではないが、君もまた田単ではなかろう呂布の手紙が届いたなら、知恵者とともに議論深めることだ」と脅迫した。蕭建は主簿返書持たせて上礼を取り良馬五匹進呈した。しかしほどなく臧霸に莒城を襲撃され、蕭建は物資奪われてしまった《呂布伝》。

参照楽毅 / 臧霸 / 田単 / 呂布 / 下邳国 / 莒県 / 徐州 / 東海郡 / 琅邪国 / 主簿 / 相 / 上礼


蕭建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 09:41 UTC 版)

蕭 建(しょう けん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。徐州東海郡の人。

事跡

姓名 蕭建
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 徐州東海郡
職官 琅邪国相
爵位・号等 -
陣営・所属等 〔独立勢力〕→呂布
家族・一族 〔不詳〕

琅邪国相として莒城を統治していた独立勢力指導者である。建安2年(197年)、徐州へ侵攻してきた袁術呂布が破った後も自立を維持していたが、呂布から降伏勧告の手紙を受け取り服従する。ところが間もなく、開陽の独立勢力指導者臧覇の攻撃を受け、蕭建は莒城を喪失した。

配下に加わった蕭建を攻められて怒った呂布は、臧覇に懲罰を加えようと莒攻撃を目論む。腹心の高順は、「座して畏服させるべきで、戦えば負けた時に名を損なう」と進言して諌めたが、呂布は聞かなかった。結局、臧覇は莒で善戦して呂布を撃退し、後に両者は和解している。

その後の蕭建の行方は不明である。なお、蕭建は小説『三国志演義』に登場しない。

参考文献



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