法務施設の移転問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 09:24 UTC 版)
岡崎が西三河の中心的都市であったがゆえ、明治から大正にかけての時期に、康生通西地内には刑務所・裁判所・検察庁の法務三施設と警察署・税務署などの官公庁が集まって一角を形成していた。しかし戦後、徐々に住宅や商店が周辺に建ちならぶと、その存在が疎まれるようになった。岡崎城の正面にあって、康生の商店街の西方への発展を妨げるように存在していたからである。そこで仮に法務施設等が移転可能ならば、合計約28000平方メートルという市街地では容易に得がたい土地が確保できる。実現すれば都市の大幅な改造が可能であるという魅力が移転運動へと導いた。 そして最初の目標になったのは名古屋刑務所岡崎支部の移転であった。観光・文化の地である岡崎公園の正面近くで、高い外塀をめぐらしている刑務所は、岡崎のイメージが芳しくないこと、約15000平方メートルの広い刑務所敷地ゆえに岡崎公園と商店街地域とのつながりに支障を来たしていること、隣接する岡崎市立連尺小学校の教育環境上好ましくないこと、などが移転の理由に挙げられた。岡崎商店街連盟と岡崎銀座発展会連尺婦人会は刑務所移転の陳情書を市長と法務省に提出した。この運動に市が動き、法務省は市の要望に応えて、1962年(昭和37年)に市が用意した土地(現在の岡崎医療刑務所の地)に名古屋刑務所岡崎支部を移転した。 そうしたさなか、すでに刑務所移転の見通しがつきはじめていた1955年(昭和30年)ころには、市や市議会・商業関係者は、さらに名古屋地方裁判所岡崎支部・名古屋地方検察庁岡崎支部やその他の官公庁も移転させ、その跡地に大規模商業施設を建設しようと、移転を目指し運動・交渉を展開した。この結果、1962年(昭和37年)から1964年(昭和39年)にかけて、法務施設等は城門通りの周辺からすべて移転した。刑務所が移転した上地では交通の便が悪いので、結局、裁判所・検察庁・拘置所・警察署の移転先は名鉄岡崎市内線沿線の明大寺町となった。これらの施設は現在も同地に存在している。なお名古屋地検岡崎支部はのちに岡崎市シビックセンターに移転した。跡地は商業施設化して新しい市街地の姿が生まれた。ただし、城門通りの北西角(現在の公園がある場所)には愛知県岡崎保健所が残ったり、逆に岡崎公共職業安定所が新たに進出してきたりして、すべてが当初の思惑どおりになったわけではなかった。 法務施設などの官公庁が都市中心部界隈にあるのは、城下町を起源とする他の都市では見られることだが、岡崎市の場合は商業施設建設へ向けての強い意向がこれら官公庁を排除した。
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