江戸時代の文学・美術における勘助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:56 UTC 版)
「山本勘助」の記事における「江戸時代の文学・美術における勘助」の解説
『甲陽軍鑑』をもとに江戸前期から、武田信玄に仕えた「軍師」としての人物像が軍談や実録、浄瑠璃、絵画作品を通じて定着し、勘助の人物像が確立した。また、勘助の家族、とりわけ母の越路(架空の人物)が劇化され、たびたび取り上げられている。以下に特に著名な二作を挙げる。 近松半二、三好松洛ら6人合作の浄瑠璃『本朝廿四孝』の三段目「筍掘り」 近松門左衛門作の浄瑠璃『信州川中島合戦』の三段目立端場「輝虎配膳」 越路は三婆と呼ばれる難役の一つに数えられている。 江戸期には『中牧合戦記』など武田家を題材とした実録も成立するが、山本勘助を扱った実録として『山本勲功記』(別称に「山本戦功記」がある。 絵画作品においては狩野了承画『山本勘助像』(江戸後期、山梨県立博物館蔵)や松本楓湖『山本勘助画像』(明治初期、恵林寺蔵・武田信玄公宝物館保管展示)などがあり、法師武者や独眼など『軍鑑』に見られる姿を反映して描かれている。また、近世にさかんに製作された武田二十四将図や、歌川国芳、歌川芳虎、歌川芳艶らの武者絵や、歌舞伎興行に際して製作された役者絵においても同様の姿で勘助が描かれ、人々の間で定着している。
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