江川の死と日蓮会の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 03:51 UTC 版)
「死のう団事件」の記事における「江川の死と日蓮会の終焉」の解説
生来病気がちであった江川は、肋膜炎や中耳炎を悪化させ、さらには結核を併発していた。日に日に衰弱する江川を、残った党員は東大病院に入院させた。彼らは無理をして治療費を捻出し、江川の療養生活を支えた。しかし病状は一向に良くなる気配はなく、医師も見放すほどであった。1938年3月15日、江川は「日蓮会館で死にたい」と、病の癒えぬまま退院。5日後の3月20日早朝に死去した。時に33歳であった。 これと前後して、信者らの「殉死」が相次いだ。まず、死にゆく江川を悲嘆した女が青酸カリを飲み自殺。また、江川の死去した日の午後、先に警視庁で切腹を企てた男が、江川の甥の家で青酸カリを飲んだ上、割腹して果てた。その5日後には、女性信者2名が猫要らず(殺鼠剤)を飲み、帝国女子医学薬学専門学校(現在の東邦大学)付属病院に運ばれたが死亡した。 同年6月10日、宮城前広場で腹を切った男が、千葉県竹岡(現在の千葉県富津市竹岡)に向かう定期船「湘南丸」に乗り込んだ。甲板に立った彼は、沖合4kmに差し掛かったところで突如「死のう」と叫び、ビラを撒きながら海中に没した。遺体は遂に発見されなかった(勿論生存していた可能性もある)。 同年7月、日蓮会館は取り壊され、「死のう団」は完全に壊滅した。
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