永田氏の隆盛とは? わかりやすく解説

永田氏の隆盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/28 17:33 UTC 版)

永田氏 (水戸藩)」の記事における「永田氏の隆盛」の解説

水戸藩は茂衛門・勘衛門功績称え1658年承応2年8月永田氏永代辰ノ口積役に任命し、茂衛門に金20両と籾15俵を下賜した。1659年万治2年)に茂衛門没し息子の勘衛門が茂衛門の名を襲名した。勘衛門水戸藩二代目藩主徳川光圀より「円」の号を賜り、麻裃の着用許された。 1678年延宝6年)、勘衛門二代目衛門襲名した長男と共に谷村(現:金砂郷村)に分家し樫村富岡)の方は次男である八郎兵衛に家を継がせた。八郎兵衛辰ノ口堰守として江堰を管理した富岡永田家その後代々八郎兵衛襲名し谷の永田家と共に辰ノ口江下積役を二等分して管理行った1843年天保14年)の給分を見るとどちらの家も53俵2斗8升7合ときちんと二等分されている。 勘衛門分家した後、二代目衛門積役を任せ自身治水事業携わりつつ金山採掘にも取り組んだこの頃、勘衛門木葉下金山(あぼっけきんざん)などを経営していた。水戸藩領内金山くまなく調べた衛門情報をまとめ、1692年元禄5年5月藩庁へ『御領御金山一巻』を提出した富岡永田家には『御領御金山一巻』の写本現代にも残されているという。 1692年元禄6年5月、勘衛門75歳没した光圀は「徳翁円水居士」の法名贈り光圀生母祀った久昌寺宮ヶ作(常陸太田市稲木町)の墓地一角に墳域を与えた時代下り1915年大正4年11月10日大正天皇即位の礼の際に勘衛門には従五位位階贈られた。 こうした永田氏功績後年加藤寛斎によりまとめられた。水戸藩下級役人であった加藤は、1821年文政4年)に辰ノ口堰役人として赴任した1847年弘化4年)までの26年間にわたって堰元役人務め辰ノ口堰維持管理行った。堰元役人として赴任した後、加藤は『辰之口御用留』を随筆形式書き上げた。『辰之口御用留』には茂衛門・勘衛門父子功績と堰の変遷記述され水戸彰考館永田氏両方保管された。ただし、『辰之口御用留』は後年辰ノ口村庄屋によって抜粋した写本しか現存していない。

※この「永田氏の隆盛」の解説は、「永田氏 (水戸藩)」の解説の一部です。
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