永田氏の隆盛
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水戸藩は茂衛門・勘衛門の功績を称え、1658年(承応2年)8月に永田氏を永代辰ノ口水積役に任命し、茂衛門に金20両と籾15俵を下賜した。1659年(万治2年)に茂衛門は没し、息子の勘衛門が茂衛門の名を襲名した。勘衛門は水戸藩二代目藩主徳川光圀より「円水」の号を賜り、麻裃の着用を許された。 1678年(延宝6年)、勘衛門は二代目勘衛門を襲名した長男と共に薬谷村(現:金砂郷村)に分家し、樫村(富岡)の方は次男である八郎兵衛に家を継がせた。八郎兵衛は辰ノ口堰守として江堰を管理した。富岡の永田家はその後、代々八郎兵衛を襲名し、薬谷の永田家と共に辰ノ口江下の水積役を二等分して管理を行った。1843年(天保14年)の給分を見るとどちらの家も53俵2斗8升7合ときちんと二等分されている。 勘衛門は分家した後、二代目勘衛門に水積役を任せ、自身は治水事業に携わりつつ金山採掘にも取り組んだ。この頃、勘衛門は木葉下金山(あぼっけきんざん)などを経営していた。水戸藩領内の金山をくまなく調べた勘衛門は情報をまとめ、1692年(元禄5年)5月に藩庁へ『御領内御金山一巻』を提出した。富岡の永田家には『御領内御金山一巻』の写本が現代にも残されているという。 1692年(元禄6年)5月、勘衛門は75歳で没した。光圀は「徳翁円水居士」の法名を贈り、光圀の生母を祀った久昌寺宮ヶ作(常陸太田市稲木町)の墓地の一角に墳域を与えた。時代は下り1915年(大正4年)11月10日、大正天皇即位の礼の際に勘衛門には従五位の位階が贈られた。 こうした永田氏の功績は後年に加藤寛斎によりまとめられた。水戸藩の下級役人であった加藤は、1821年(文政4年)に辰ノ口堰元役人として赴任した。1847年(弘化4年)までの26年間にわたって堰元役人を務め、辰ノ口堰の維持管理を行った。堰元役人として赴任した後、加藤は『辰之口御用留』を随筆形式で書き上げた。『辰之口御用留』には茂衛門・勘衛門父子の功績と堰の変遷が記述され、水戸の彰考館と永田氏の両方で保管された。ただし、『辰之口御用留』は後年に辰ノ口村庄屋によって抜粋した写本しか現存していない。
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