永田時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 06:59 UTC 版)
数社を統合してオーナーとなった永田雅一が、社員をすべて縁故採用で固める会社組織を行うと、自身のカリスマ性を高め、組織を強固にした反面、組織内に近親憎悪的な軋轢を数多く生んだ 。 社風は日活の伝統を受け継ぎ、尾上松之助が保守的な京都の土壌に持ち込んだ自由な気風がハイカラな伝統を生んだ。他社間だけでなく、東西撮影所同士でもライバル視する排他的な気風も残した。企画会議は、京都作品も必ず東京本社4階会議室に永田社長を筆頭に40人からのプロデューサーらが集められ、最終決断は必ず永田が下す体制を敷いた。東京と京都の撮影所は、撮影設備も機材も永田の独断で最新鋭のものが揃えられたが、倒産の最後まで自社の現像所は持たなかった。 この体制下で大映は一時期大きな成功を収めたが、直営の興行館が東宝や松竹に比べ数の面ではるかに劣り、興行収入に大きく影響した。映画産業の近代化・斜陽化が進むにつれて、永田の前時代的な「カツドウヤ」の体質を残したままの丼勘定と、公私混同した典型的なワンマン経営は様々な弊害を生み、最終的に大映の破綻に至る。
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