母の蛍捨てにゆく顔照らされて
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評 言 |
いくたびも自叙伝を書き替えた男、寺山修司。 寺山は自分を語ることが好きだった。しかしそのほとんどがなにかしら嘘を含むものだったことは有名である。特に彼と母親との関係は、いったい何が本当だったのか、もう誰にも分からないほどに幾重にも虚構の梁が組み上げられてしまっている。寺山の書いた嘘の自叙伝に、母ハツは息子亡き後その著書『母の蛍』でさらに嘘を上書きしてしまい、そうしてできあがった虚構の母子像は、それ自体がひとつの物語となった。 意図的に自分の過去を書き替えざるをえない理由が寺山にはあったのである。三島由紀夫との有名な対談で浮き彫りになったのは、必然への嫌悪と偶然への共感であった。三島が人生の必然を強調すればするほど、寺山は人生の偶然を主張した。それは、青年時代のネフローゼとその治療としての大量輸血、そのことによって罹患した肝臓疾患が、彼の人生観に大きく影響していたのだろう。 彼は自らの余命にいつもおびえていた。その不安から逃げるためには、人生は偶然であり、過去はどのようにも書き替えられると思うしかなかったのである。もちろん、彼の文芸の始まりから虚構への愛着は強かったわけだが、肝臓疾患が明らかになるにつれ、すべて「偶然」という発想が創作の中心に置かれるようになっていった。 掲句は、『花粉航海』の句である。高校時代の俳句作品を句集にまとめたと言いながら、30代に作った句を多数紛れ込ませた中の一句だ。母の句は多数あるが、この句は後年の虚構の色彩を強く匂わせている。 人生は偶然なのだから、書きかえられた人生もまた真実なのだと考え、寺山は毎日「昨日」を書き替えて生きた。おそらく自分の死さえ書き替えたかったことだろう。この句には、そんな彼の創作動機が生生しく血の色で書き遺されているのである。 |
評 者 |
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備 考 |
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