歴代長崎目付
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 09:02 UTC 版)
初代長崎目付は石河三右衛門政郷で、正徳5年(1715年)に大目付の仙石丹波守久尚と共に着任する旨を記載した老中奉書が老中・井上正岑から1月11日付で発給された後に、同月19日に石河は仙石と共に江戸を出立して2月23日に長崎に到着、8月末まで同地に滞在した。それから日下部作十郎博貞まで、4人の長崎目付が派遣されたが、そこで一時中断となる。享保4年(1719年)2月には目付代の使番・筧新太郎正尹が派遣され、この後再び長崎目付が半年ごとに滞在することとなった。しかし、享保6年(1721年)の宮崎七郎右衛門成久の記述において「代り無之」と記された後は、定期的な長崎目付の派遣は無くなった。 その後、巡見上使や勘定所の役人が派遣されることはあっても長崎目付の派遣は無くなり、天保6年(1835年)に目付の戸川播磨守安清が派遣された後、興廃を繰り返して幕末に至った。 初代から11代目までの長崎目付石河三右衛門政郷(1715年2月-8月) - 後、長崎奉行 大久保一郎右衛門忠義(1715年8月-1716年2月) 柴田七左衛門康端(1716年2月-8月) 日下部作十郎博貞(1716年8月-1717年2月) - 後、長崎奉行 筧新太郎正尹(1719年2月-9月) 妻木平四郎頼隆(1719年8月-1720年3月) 平岩七之助親賢(1720年2月-8月) 石野八大夫範種(1720年8月-1721年2月) 宮崎七郎右衛門成久(1721年2月-8月) 三宅大学康敬(1723年11月-1724年2月) - 後、長崎奉行 大森半七郎時長(1730年9月-1731年5月) - 後、長崎奉行 このほかに、享保2年(1717年)12月13日に目付の渡辺が、長崎目付の立場で「西海唐船打取検使(さいかいとうせんうちとりけんし)」として長崎に着任。不法行為をする「唐船」の対処のために九州北西部沿岸の状況把握を行っている。
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