武装蜂起の支援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:11 UTC 版)
ボリシェヴィキはロシア革命をヨーロッパ革命の導火線と位置づけており、ヨーロッパ革命なしではロシアで国家権力を維持することも難しいと考えていた。そのため、ソヴィエト政府の財政資金も利用してヨーロッパの共産主義運動を積極的に援助した。 とりわけ重要視されたのがドイツだった。1918年11月に社会民主党政権が成立して以後、1919年のバイエルン・レーテ共和国、1920年のカップ一揆と政治的激動がつづき、勝利が近いと考えられた。 1921年3月のドイツにおける三月行動はコミンテルンが組織的にヨーロッパの革命を援助した最初の例となった。まず、コミンテルンは統一ドイツ共産党議長パウル・レヴィを辞任に追いこんだ。イタリア社会党に対するコミンテルンの分裂工作に反対したことが理由であった。そして新たな指導部を「攻勢」すなわち武装闘争へと駆り立てた。クン・ベーラをリーダーとするチームをドイツに派遣し、統一ドイツ共産党を監督した。しかし三月行動は大衆的支持を得られないままあっさりと粉砕された。 1923年のルール占領はドイツの政治危機を呼び起こし、統一ドイツ共産党を復活させた。コミンテルンは武装蜂起の方針を決め、ドイツの党の指導部をモスクワに呼びよせて蜂起の詳細な計画を作成した。しかし同年10月の蜂起は直前に中止が決定され、不発に終わった。連絡ミスで蜂起を開始したハンブルクでも戦闘は数日で終わり、統一ドイツ共産党は非合法化された。
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