武蔵国の大舘氏
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埼玉県所沢市には、宗氏の子孫と伝えている大舘氏があり、もと後北条氏被官の配下で北条氏敗北後、家康の関東入部後に帰農した一派といわれる。室町幕府に仕えた一族との関連は不明。江戸初期には筆頭名主となった大舘傳右衛門(助右衛門)家がみえる。この家は領主の旗本・花井氏と関係が深く、家康小姓・花井庄右衛門吉高の廃嫡男子・庄五郎吉政と婚姻関係を結び、この子孫も傅右衛門家の分家筋として大舘姓を称している。のち江戸後期に大舘傳右衛門家から名主職はその配下だった大舘清右衛門家に移り、それを期に清右衛門系が傅右衛門系より優位になり、ついに清右衛門家は花井氏の地代官(名主出身の代官)にもなり、苗字帯刀槍一筋御免となり、弘化4年(1847年)には、武蔵国入間郡に「大舘氏碑」を建立し総本家を自称するようになった。その碑文によると、大舘式部義隆という人物が新田義貞の鎌倉攻めに従い戦死し、その子主税義信というのが、新田義興が武蔵国で誅殺されたとき以降、現在の地に帰農したという。しかし大舘義隆・義信なる人物は史料上に見えず、「帰農」という概念は身分制が固まる江戸期以降のことである。この系譜は、地代官任命時に創作された可能性が高く、信憑性に問題があるとされる(所沢市史編さん関係資料群)。傳右衛門系・清右衛門系を含め、この地域の大舘一族が実際に新田大舘氏の系譜を引くのかは同時代の史料的には確かめられていない。
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