武田信繁
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武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏18代・武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。
- ^ 柴辻俊六「武田信玄とその一族」柴辻編『新編武田信玄のすべて』(2008、新人物往来社)
- ^ a b 『高白斎記』
- ^ a b 真田昌幸も憧れた武田信玄の弟・信繁 | 歴史人 2023-04-08閲覧
- ^ 『甲陽軍鑑』より。同書における諏訪侵攻の経緯は年次の誤りを多く含み評価は慎重視されるが、高遠蓮芳斎の討取や虎房の活躍は『高白斎記』においても確認され、丸島和洋は「信繁が甲信国境の武川衆を率いていることからも、諏訪侵攻において大将を務めていた説には一定の信憑性がある」と評す(丸島 2007)。
- ^ 平山優「武田信玄の家臣団編成」『新編武田信玄のすべて』
- ^ 丸島 2007
- ^ 『恵林寺旧蔵文書』
- ^ 『勝山記』に拠る。第4次川中島の戦いについては文書・記録史料ともに少なく合戦の実情が不明であるが、信繁をはじめとする武田重臣の戦死から激戦であったと考えられている。近世に成立した『甲陽軍鑑』をはじめ、江戸時代には様々な軍記物において合戦に関する虚実入り交じった逸話が流布するが、信繁の戦死については『上杉謙信申状』『北越軍談』『武辺咄聞書』などにおいて、かつての宿敵である村上義清の手によって討ち取られた、あるいは死の直前に討死を覚悟し春日源之丞に形見を託したなどの逸話が記されている。
- ^ 長野市「信州・風林火山」特設サイト 2023-04-08閲覧
- ^ 長野市文化財データベース 頭で感じる文化財 デジタル図鑑(頭感) 2023-04-08閲覧
- ^ 平山(2008)
- ^ 三上景文『地下家伝 第1-7 (日本古典全集 ; 第6期)[1]』(日本古典全集刊行会、1937年)
- ^ 『駿台雑話』
- ^ 『甲陽軍鑑』
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