正力家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:58 UTC 版)
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助が、この地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による。江戸嘉永年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した。この功により、庄助は奉行から苗字帯刀を許された。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている。正力家が土建請負業として大をなしたのはそれからだった。 祖父・庄助 父・庄次郎(土建請負業) 母・きよ 松太郎の両親はもともと本願寺の熱心な門徒だった。父・庄次郎は毎朝毎晩の勤行をかかさなかった。松太郎の両親への報恩の情はきわめて篤かった。 前妻・布久子 警視庁の上層部が正力の将来にいかに属目していたかは、当時の警視総監の安楽兼道が妻の兄弟の娘、つまり安楽にとっては義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島県出身)と見合いさせ、結婚させたことでもわかる。だが、布久子は一女をなしてまもなく亡くなった。その長女も8歳で早世した。 後妻・波満 1895年(明治28年)4月生 正力は最初の妻を失って間もなく、千葉県上総湊(後の富津市)出身で精華女学校の和裁教諭の吉原波満と再婚した。波満が教鞭をとったのは、同校創始者の勝田孫弥が、波満の実家と縁つづきという関係からだった。勝田はその一方で、元警視総監の安楽兼道とも縁戚にあり、最初の妻を早くに亡くした正力を不憫に思った安楽が、遠い縁つづきの波満を世話したものだった。
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