正中の変まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:26 UTC 版)
鎌倉時代後期、幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた(得宗専制)。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって生活が困窮し、没落する者も増加していった。幕府は徳政令を発して対応するが、社会的混乱から諸国では幕府や荘園領主に反抗する悪党の活動が活発化し、次第に支持を失っていった。 朝廷では13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。 文保2年(1318年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位した。後醍醐天皇は父の後宇多天皇の政治路線を継承し、朝廷への中央集権化を進めた。ところが、正中元年(1324年)、幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられ、六波羅探題によって捕縛された(正中の変)。幕府の公式発表では、天皇は冤罪とされて罪には問われなかったが、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。
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