機業のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:07 UTC 版)
「三津 (京丹後市)」の記事における「機業のはじまり」の解説
1720年(享保5年)に峰山で発祥した丹後ちりめんをはじめとする、丹後地方の地場産業である機業は文化年間(1804年-1818年)以前には三津にも伝えられ、1866年(慶応2年)には17戸が機業に従事していた。その後も機業は発展して三津の繁栄に影響し、織物産業が全体的には衰退傾向にある21世紀初頭においても、約30戸が織物生産に関わり、三津第一の産業となっていた。 明治から昭和初期にかけての漁村農村山村地域は、全国的に慢性的な不況状態にあったとみられている。三津の東隣の丹後町地域でも、11月から翌年3月の漁業農業の閑期には伏見方面への酒造りなどの出稼ぎに出る者が多かったが、三津では機織り関連の仕事が普及していたため、男女ともに出稼ぎは行われなかった。明治から昭和中期にかけての丹後ちりめん産業は隆盛期で、仲間内で獲ってきた魚をつまみに「一杯飲み会」をしたり、花札を楽しむゆとりすらあったという。1932年(昭和7年)、1933年(昭和8年)には漁業は記録的な不漁のため大不況となったが、三津村は女達の機織りの収入と漁師間で会社を設立するなどして不況を乗り切り、外資に頼ることはなかった。
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