楢崎一光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 18:53 UTC 版)
鈴木素田の跡を託されたのが当時永平寺後堂であった瑞應寺29世楢崎一光(大玄一光)である。元々出家前の鈴木素田と旧知であったことから親交を深めていたが、鈴木が病床にある際に聖護寺復興支援者に遺言をして、後を託されることとなった。楢崎自身は、本人が住職に就いている瑞応寺において専門僧堂の指導者として後進の指導に当たっていたことから固辞していたが、カトリックが招聘した霊性交流への参加に伴い欧米を歴訪した際に、有志僧侶による曹洞禅の欧米へと広まりを見せる中で、同じく世界に広まっていた日本の臨済禅・黄檗禅、中国の曹洞正宗・臨済宗の禅との混交や、自然回帰思想の瞑想の一形態としての禅という変質に危機感を覚え、「国際禅道場」という構想を持つに至った。そこで聖護寺の伽藍を七堂伽藍に整備し、海外からの留学僧を受け入れ道元の禅を正しく伝える場所として維持することを提案した。復興支援者も、道元の正嫡である大智ゆかりの寺としてふさわしいと同意を見せたことから、新たに僧堂・寮舎(トイレ・風呂併設)・開山堂・茶室(方丈+客殿)、開山墓・世代墓や聖護尼廃寺周辺の整備を進め、曹洞宗宗務庁の支援もあって「国際禅道場」として夏安居が始まった。楢崎が永平寺副貫主に就いたことから、より一層の曹洞宗の道場として充実を図っていた半ば、楢崎は病に倒れた。中興三世。
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