検校となってから
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:25 UTC 版)
天明3年(1783年)に検校となる。天明4年(1784年)、和歌を日野資枝に学ぶ。寛政5年(1793年)、幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始める。 和学講談所は同年7月には林大学頭の支配をうけるようになり、準官立機関となった。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』である。また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。同所の出版している『大日本史料』がそれである。盲人としても、寛政7年(1795年)には盲人一座の総録職となり、文化2年(1805年)には盲人一座十老となる。文政4年(1821年)2月には総検校になる。 同年9月に76歳で死去。幕府への正式な届けは翌年(1822年)、四男忠宝が跡を継いだ。
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