桜川改修桜川は千波湖への流入から切り離された。そして新たに造られた上沼北岸に沿って走る水路を流れさせた。そして、その水路は下沼があった部分に新たに造られた"大排水路"と呼ぶ水路に接続され、大排水路は馬場川(「下町外堀」、「桜川」とも呼ばれていた)と呼ばれていた水戸城の旧外堀に接続した。そして馬場川は那珂川に注いだ。この改修で桜川はその上流から、千波湖北岸に新造の用水路→大排水路→馬場川→那珂川との合流点に至るまでの全部を通して"桜川"と呼ばれるようになった。大排水路を造る工事は1922年10月着工、1926年8月竣工で、造られた大排水路の規模は上幅13間(約23.6メートル)、深10尺5寸(約3.2メートル)、長1600間(約2.9キロメートル)であった。新柳堤水門設置大排水路上に新柳堤水門を設置する工事が1922年10月着工、1924年3月竣工で行われている。新柳堤水門は奥行き102寸(約3メートル)、高さ19尺5寸(約6メートル)で、水を堰き止めたのは幅13尺(約4メートル)高さ8尺(2.4メートル)の電動式の門扉5枚であった。備前堀までの導水路設置新柳堤水門で堰き止めた水を備前堀まで導水する水路が造られた。水路はかつて下沼の東側湖岸外周にそって敷設され備前堀と接続した。逆川河道改修
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「千波湖」の記事における「桜川改修桜川は千波湖への流入から切り離された。そして新たに造られた上沼北岸に沿って走る水路を流れさせた。そして、その水路は下沼があった部分に新たに造られた"大排水路"と呼ぶ水路に接続され、大排水路は馬場川(「下町外堀」、「桜川」とも呼ばれていた)と呼ばれていた水戸城の旧外堀に接続した。そして馬場川は那珂川に注いだ。この改修で桜川はその上流から、千波湖北岸に新造の用水路→大排水路→馬場川→那珂川との合流点に至るまでの全部を通して"桜川"と呼ばれるようになった。大排水路を造る工事は1922年10月着工、1926年8月竣工で、造られた大排水路の規模は上幅13間(約23.6メートル)、深10尺5寸(約3.2メートル)、長1600間(約2.9キロメートル)であった。新柳堤水門設置大排水路上に新柳堤水門を設置する工事が1922年10月着工、1924年3月竣工で行われている。新柳堤水門は奥行き102寸(約3メートル)、高さ19尺5寸(約6メートル)で、水を堰き止めたのは幅13尺(約4メートル)高さ8尺(2.4メートル)の電動式の門扉5枚であった。備前堀までの導水路設置新柳堤水門で堰き止めた水を備前堀まで導水する水路が造られた。水路はかつて下沼の東側湖岸外周にそって敷設され備前堀と接続した。逆川河道改修」の解説
逆川は千波湖へ直接流入していた河道を、新たに造られた"大排水路"と呼ぶ水路(=桜川)に合流するように改修された。
※この「桜川改修桜川は千波湖への流入から切り離された。そして新たに造られた上沼北岸に沿って走る水路を流れさせた。そして、その水路は下沼があった部分に新たに造られた"大排水路"と呼ぶ水路に接続され、大排水路は馬場川(「下町外堀」、「桜川」とも呼ばれていた)と呼ばれていた水戸城の旧外堀に接続した。そして馬場川は那珂川に注いだ。この改修で桜川はその上流から、千波湖北岸に新造の用水路→大排水路→馬場川→那珂川との合流点に至るまでの全部を通して"桜川"と呼ばれるようになった。大排水路を造る工事は1922年10月着工、1926年8月竣工で、造られた大排水路の規模は上幅13間(約23.6メートル)、深10尺5寸(約3.2メートル)、長1600間(約2.9キロメートル)であった。新柳堤水門設置大排水路上に新柳堤水門を設置する工事が1922年10月着工、1924年3月竣工で行われている。新柳堤水門は奥行き102寸(約3メートル)、高さ19尺5寸(約6メートル)で、水を堰き止めたのは幅13尺(約4メートル)高さ8尺(2.4メートル)の電動式の門扉5枚であった。備前堀までの導水路設置新柳堤水門で堰き止めた水を備前堀まで導水する水路が造られた。水路はかつて下沼の東側湖岸外周にそって敷設され備前堀と接続した。逆川河道改修」の解説は、「千波湖」の解説の一部です。
「桜川改修桜川は千波湖への流入から切り離された。そして新たに造られた上沼北岸に沿って走る水路を流れさせた。そして、その水路は下沼があった部分に新たに造られた"大排水路"と呼ぶ水路に接続され、大排水路は馬場川(「下町外堀」、「桜川」とも呼ばれていた)と呼ばれていた水戸城の旧外堀に接続した。そして馬場川は那珂川に注いだ。この改修で桜川はその上流から、千波湖北岸に新造の用水路→大排水路→馬場川→那珂川との合流点に至るまでの全部を通して"桜川"と呼ばれるようになった。大排水路を造る工事は1922年10月着工、1926年8月竣工で、造られた大排水路の規模は上幅13間(約23.6メートル)、深10尺5寸(約3.2メートル)、長1600間(約2.9キロメートル)であった。新柳堤水門設置大排水路上に新柳堤水門を設置する工事が1922年10月着工、1924年3月竣工で行われている。新柳堤水門は奥行き102寸(約3メートル)、高さ19尺5寸(約6メートル)で、水を堰き止めたのは幅13尺(約4メートル)高さ8尺(2.4メートル)の電動式の門扉5枚であった。備前堀までの導水路設置新柳堤水門で堰き止めた水を備前堀まで導水する水路が造られた。水路はかつて下沼の東側湖岸外周にそって敷設され備前堀と接続した。逆川河道改修」を含む「千波湖」の記事については、「千波湖」の概要を参照ください。
- 桜川改修桜川は千波湖への流入から切り離された。そして新たに造られた上沼北岸に沿って走る水路を流れさせた。そして、その水路は下沼があった部分に新たに造られた"大排水路"と呼ぶ水路に接続され、大排水路は馬場川と呼ばれていた水戸城の旧外堀に接続した。そして馬場川は那珂川に注いだ。この改修で桜川はその上流から、千波湖北岸に新造の用水路→大排水路→馬場川→那珂川との合流点に至るまでの全部を通して"桜川"と呼ばれるようになった。大排水路を造る工事は1922年10月着工、1926年8月竣工で、造られた大排水路の規模は上幅13間、深10尺5寸、長1600間であった。新柳堤水門設置大排水路上に新柳堤水門を設置する工事が1922年10月着工、1924年3月竣工で行われている。新柳堤水門は奥行き102寸、高さ19尺5寸で、水を堰き止めたのは幅13尺高さ8尺の電動式の門扉5枚であった。備前堀までの導水路設置新柳堤水門で堰き止めた水を備前堀まで導水する水路が造られた。水路はかつて下沼の東側湖岸外周にそって敷設され備前堀と接続した。逆川河道改修のページへのリンク